日本ポップス探訪  

〜昭和歌謡を聴こう〜

♪1 平野愛子特集

 今は昔のこと、日本には流行歌というものがあった。「古い歌?演歌でしょ。」と思った人!そりゃないぜセノリータ。グラッチェ。まあ、この国の音楽のジャンル分けの仕方(ex.1970年代のフォーク、1980年代のニューミュージック)や、演歌という不可思議なジャンルについても考察していく必要があるとは思いますがそれはまた別の機会にすることにしまして・・・。流行歌、歌謡曲と言った方がわかりやすいかな。一つ一つの唄がもっと庶民に身近だった頃のこと。少なくとも今より聴く側にとってはわかりやすかった時代の曲たち。ここではそんな古き良き日本のポップスをいろいろ聴いていきたいと思っております。

 ラジオ放送が本格的に始まったのは大正14年。その翌年が昭和元年(ちなみに一週間しかなかった)。コロムビア、ポリドール、ビクターのレコード会社3社が発足したのが昭和2年。昭和4年頃にはレコード会社は意識的にヒット曲(流行歌)を狙うレコード制作を始めます。(それまでは巷で歌われていた曲を録音するというものが主だったようです。)そしてヒット曲の第1号とされているのが「東京行進曲」(唄・佐藤千夜子、作詞・西条八十、作曲・中山晋平、レコード会社はビクター。昭和4年)と言われています。レコード歌謡の登場により、人々を集めて披露することよりも、レコードという媒体による流布が歌謡曲を浸透させる極めて効果的な方法になっていったわけです。

 佐藤千夜子の唄を聴いてみよう→ 

 記念すべき第一回は平野愛子さんにしてみました。ビクターの戦後復興第1号歌手です。
 戦後復興の唄として印象深いのはやはり「リンゴの唄」(唄・並木路子、作詞・サトウ八チロー、作曲・万城目正、コロムビア・昭和21年)でしょう。彼女が主演した映画「そよかぜ」(昭和20年・松竹、監督・佐々木康)で唄うシーンでは焼け野原の街とは対照的なリンゴ園を駆け回り、農夫たちに笑顔!戦争なんてどこ吹く風さハイウェイ・トリップ!戦後の暗い気持ちを晴らしたこの曲は映画だけでなくラジオからも頻繁に流れ、12万枚もの驚異的なセールスを記録しました。

並木路子の唄を聴いてみよう→

 打って変わってビクターは戦災でレコーディング・スタジオを失っていました。そのため新曲を発表することができず、他のレコード会社に大幅な遅れをとってしまいました。できることは焼け残った原盤を再発売することだけ。が、しかし!そのプレス機材もないため、戦災をまぬがれたライバル会社のコロムビアにプレスを依頼せざるを得なかったのです。それに対してコロムビアはナントモハヤ快諾してくれました。ビクターはその代わりにラジオや電蓄の部品を供給しました。このお話は今もなおレコード業界に語り継がれている美談だそうです。

 昭和22年2月にようやっとビクターは戦後初の新譜を発表します。それが平野愛子さんの「港が見える丘」でした。

平野愛子の曲を聴いてみよう→ 

 しかし「リンゴの唄」とは対照的なブルース調。ビクターの意地がうかがえる渾身の曲は当時の人々の心をつかみ、ヒットした。港が見える丘に恋する男と来て、同じ場所で別れ、今は独りここにいる。(ちなみに横浜にある公園はこの曲から頂いております。詞は神戸を想定して書かれたという説もありますが。)戦争の悲しみを匂わす詞は作曲している東辰三のもの。この時代に作詞も作曲もこなすのは珍しかったと思います。「色褪せた桜」「ウツラトロリと見る夢」など名フレーズがちりばめられたこの曲は今聴いても新鮮です(私には)。東−平野コンビとしてはこの後の「君待てども」(昭和23年1月)でとどめをさします。紅白歌合戦にも初出場しました。

 「濡れたビロウド」と形容された彼女の声はとても魅力的です。裏声から普通の声に戻るのがとても自然でブライアン・ウイルソンに通じるものがあります(本当か!)。この流れとして淡谷のり子さんが挙げられます。しかし昭和25年に東辰三が亡くなり(スタジオで独り亡くなったと、どこかで聴いた記憶があります。)平野さんもレコード歌手としての活動から静かに身をひいていきます。

<終わり>